『連作短編 わたしと歩く日々』 TOMO (Kindle)

2019年10月22日火曜日

 すべてひと文字の題を持った短編小説集。



 冒頭の一編『虫』で、主人公の携帯電話に不思議なメールが送られてきます。離れた場所にいるはずの知人からの、自分の状況を見透かされたかのようなメールです。なぜそんなメールが送られてくるのだろう? その疑問が火種になって、短編というよりは掌編の集まりである作品たちを最後まで読んでしまう。全て同じ登場人物の小説であり、掌編の集まり全体をひとつの短編小説として読むこともできます。

 著者のともさんは私が『猫間川をさがせ』を書いていた時に同じウェブサイトに小説を書いていて知り合いました。ライブハウス経営者でミュージシャン。文章も続けて書かれていて、同じタイミングで Kindle でリリースされた『150字エッセイ』はサイトを変えつつ note で書き続けられています。『心に効く写真と詩』も note に移る前のブログを使って発表されていた、フォトグラファーの写真にともさんが詩をつけるという、いわば「セッション」を演っていたのをまとめたものです。これらはいずれも私にとって読んだことがあるもので、本として購入することで今まで出来なかった、その作品に幾ばくかの敬意を投じるということが出来ました。

note.mu

 対して初めて読むこととなった『連作短編 私と歩く日々』については、何故この形なんだろう? モデルがあって書かれたのだろうか? それとも書く形式があってそれに自分の所感を若い女性の主人公に寄託して創作されたのだろうか? ……など、色々考えることになりました。特に冒頭の不思議なメール。ちょっと超常的な能力がある知人がいて……ということがのちのち語られるのですが、小説を書く時に「霊能力がある」的な人物を描いてしまうのは読み手からみた時に許容されるのだろうか、そんなことを考えます。いや、日常的に「あの人には霊が見えるらしいよ」的な会話が交わされたりはする気がします。しかしエンターテイメントとして、それを背景に使ってしまって良いのかと迷いを感じてしまいました。

 例えばそういう能力がある、ということを「題材」にして SF を書くのは普通のことでしょう。「題材」にして他の世界の話として書くのではなく、我々が生きているのと恐らく同じ世界の、それも日本の地方のまちでの出来事を描くのに「背景」としてさらって描いてしまうのはどうなんだろうか。

 他に「我々と同じ世界に超常的なことが背景として紛れ込んでくる」という小説があったろうかと考えてみて、短編小説に限って頭の中を探してみました。最初に思い浮かんだのは村上春樹の『象の消滅』でした。

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

 主人公の住むまちの動物園で飼育されていた象と飼育員が忽然と消えてしまう。具体的にどのまちであるのかということは分からないけれど主人公の日常は我々の日常と地続きである感じがします。その中であれだけ大きな象が姿を消すという、超常的なことが起きるわけです。それを受けて様々な報道がなされるところなどはやはり現実味がありますが、象と飼育員の消滅にはやはり超常的な出来事が示唆されます。それは現実認識を超えたことが起きた時の報道や大衆の反応への皮肉を表現したものかもしれず、ひいては何かの暗喩かもしれません。このような使い方は多分、理解を得られるのではないかという気がします。

 もうひとつ何かないかと考えると、芥川龍之介の『魔術』が浮かびました。

www.aozora.gr.jp

 マティラム・ミスラという「印度の独立を計っている愛国者で魔術の大家」に、主人公がその「魔術」を教えてもらおうとする顛末。ミスラ氏本人が「進歩した催眠術に過ぎない」と言っているのでこれは超常的なこととは言わないのかもしれません。人間の欲望についての寓話だというのが分かりやすく読み取れる作品です。

 自分はこれぐらいしか思いつきませんでした。実際はもっとあるのでしょう。長編小説まで含めれば尚更。私は読めていないのですが吉本ばななさんなどにはそういう作品があるのではないでしょうか。

 ともさんの小説に戻ると、地方出身の若い女性が持っているであろう将来への不安感を現実の手触りの感じられるように描いています。一編一編は短いので表現が表層的になっているところはあるかもしれません。一方で主人公が離婚を経て今に至っていることであったり、実家の両親とのやりとりであったり、かつて引きこもりであった弟の手紙であったり、「満月に向かって財布や預金通帳を振ると思いがけない臨時収入がある」というおまじないが描かれていることが現実にありそうな手触りを産んでいます。「ちょっと変わった能力がある知人がいる」ということも現実にありそうな物語を紡ぐのにこの場合使われたのでしょう。その能力ゆえに苦しみを負うこともある、という描写が含まれていることも含めて。

 地方都市での「わたしの中に通底音としてある正体不明の苛立ち」を抱えた日々を経て主人公は年老いた親の介護のために地元に戻ります。そこに失望感はなく、むしろ「なんとかなるんじゃないかな」という根拠のない希望があります。これは今のこの国においてかつてはそこここに満ち溢れていたけれどこの何十年かで急速に失われてきたものではないかと日々感じています。それは「炎上」などという言葉がネット上での一般用語となったなかで誰かの落ち度を見つけた時に匿名で一方的に侮蔑したり非難しているような態度であったり、ネット上での論争において間違いが明らかであっても頑なに謝罪をしないような態度であったり、そういうところに現れます。自らの見通しに余裕がある人間はそのような態度にはなかなか及ばないものです。その余裕は「なんとかなる」という根拠のないものであっても良い。

 ハッピーエンドではないけれどなんとなくの希望を締めくくりに描きこんだ小説を今書いた、ということにそんな意味を勝手に読み取りました。


連作短編 わたしと歩く日々 TOMO


心に効く写真と詩 TOMO 野村ゆき


150字エッセイ TOMO