先に豊平文庫について言及したので、この iPhone 用青空文庫リーダーアプリで読んだ体験についても書いておきます。
青空文庫はご存知の通り、著作権消滅後の作品ないし著作者が認めた作品がデジタル化され公開されているサービスです。以前から提供されてきたサービスですが、私としては文献として確認したい場合などに限り PC で読んでいました。
現在はスマートフォンやタブレット向けに複数の「青空文庫リーダー」が作られリリースされており、本として読む機会が格段に増えました。
特に豊平文庫という iPhone アプリを知った時はその操作性の手軽さ、縦書き画面の美しさにインパクトを受けました。
例えば本のダウンロードはこうです。作家別、あるいは作品タイトル別に五十音順にリスト表示されますのでそこから選んでいきます。私はいつも作家のお名前から本を選びます。
『渋江抽斎』はすでに読んでいますので「すぐ読むことができます」と表示されます。ダウンロードするところを別の作品でやってみます。『渋江抽斎』からのスピンアウト作ともいえる『寿阿弥の手紙』をダウンロードします。
一瞬にして取得が完了します。あまりにも早くスナップショットが取れなかったので更に『柵草子の山房論文』もダウンロードしました。
画面に一瞬、テキストの ZIP をダウンロードして保存、解凍するまで表示されますが小品ならば一瞬で終わります。入手済みの本のリストの中に入ります。
私ごとですが、割りと最近になって『渋江抽斎』を読んで、何でこれを自分が『猫間川をさがせ』を書く前に読まなかったのだろうな、とおもいました。
なんというか、歴史に埋もれたものを丹念に拾い上げて新しいものをつくっていく、その喜びのような感情をモチベーションにしながら書いて居られたのではないかという共感を感じました。ただ一方で、もし先に読んでいたら影響を受けてしまって、『猫間川をさがせ』をよう形にしなかったかもしれない、ともおもいました。知らぬとことが、時に力にもなります。
鴎外は収集した武鑑からの情報だけでなく、墓碑などを求めて大正期の東京を歩き、縁の人を訪ねて歩いており、恐らくは現在残されている肖像画や写真に近い年齢であろう森林太郎の姿が読んでいるさなかにたびたび目に浮かびました。訪ねて来られたひとたちとしては、森林太郎と聞いてああ、あの……となったのか、興味があるところではあります。
森鴎外には『山椒大夫』や『高瀬舟』、『護持院ヶ原の敵討』といった所謂「歴史小説」の名作があります。私が幼年期から読んでいたのはどちらかというとこれらの作品でした。確かにこれらの作品はストーリーだてがしっかりしていて、子供にも大人にもその物語が読んだまま伝わる作品になっているとおもいます。
小学生や中学生だった頃の私には『渋江抽斎』に始まる歴史物というか史伝は退屈だったはずで、概略だけを文学史のなかに読んでそのままにしておき、四十路に及んで読み始めたというのは鴎外翁の執り成しだったのかもしれないと後生の勝手ながらおもいます。
豊平文庫の見た目や操作性の良さは先にも触れました。
読んでる途中の操作ですが、ページの下の隅をタップすることで一瞬で改ページする仕様は私は豊平文庫で初めて見ました。一般的にブックリーダーでは実際にページをめくるような改ページのビューを見かけますが、私はこの方が好みです。ストレスが無い。
ページの真ん中、多分少し上が良いのかな(下の画像のガイドが表示されていない辺りですね)……シングルタップするとガイドメニューが出ます。
同じ場所をダブルタップすると別のガイドメニューが出ます。本のリストに戻りたい時は「本を選ぶ・設定」を。背景色・字詰めは私は触らないでいます。ページ指定も偶に使う程度。「読書タイマー」は使っていないですが時間を決めて読書する場合には良いでしょうね。
漱石、鴎外、芥川龍之介が読める時点でもうこれでいいじゃないかと思ったものでしたが、青空文庫ならではの制限もあります。外字が注釈表示になってしまうことです。
上記ページなどはその例です。『渋江抽斎』に続いて読んでいる『伊沢蘭軒』では、度々引用される蘭軒の『葌斎詩集』(かんさいししゅう)の「葌」が外字であり、都度注釈表記となってしまい、読んでいてその都度読んでいる流れが切れてしまうのを感じています。これは決して小さくない制限だとおもっています。もちろん、青空文庫の意義を否定するものではなく、青空文庫と有価な品としてある書籍のそれぞれの意義を指し示す、ひとつのポイントだろうとおもっています。
青空文庫はご存知の通り、著作権消滅後の作品ないし著作者が認めた作品がデジタル化され公開されているサービスです。以前から提供されてきたサービスですが、私としては文献として確認したい場合などに限り PC で読んでいました。
現在はスマートフォンやタブレット向けに複数の「青空文庫リーダー」が作られリリースされており、本として読む機会が格段に増えました。
特に豊平文庫という iPhone アプリを知った時はその操作性の手軽さ、縦書き画面の美しさにインパクトを受けました。
例えば本のダウンロードはこうです。作家別、あるいは作品タイトル別に五十音順にリスト表示されますのでそこから選んでいきます。私はいつも作家のお名前から本を選びます。
『渋江抽斎』はすでに読んでいますので「すぐ読むことができます」と表示されます。ダウンロードするところを別の作品でやってみます。『渋江抽斎』からのスピンアウト作ともいえる『寿阿弥の手紙』をダウンロードします。
一瞬にして取得が完了します。あまりにも早くスナップショットが取れなかったので更に『柵草子の山房論文』もダウンロードしました。
画面に一瞬、テキストの ZIP をダウンロードして保存、解凍するまで表示されますが小品ならば一瞬で終わります。入手済みの本のリストの中に入ります。
歴史作品書きとしての鴎外への共感
私ごとですが、割りと最近になって『渋江抽斎』を読んで、何でこれを自分が『猫間川をさがせ』を書く前に読まなかったのだろうな、とおもいました。
なんというか、歴史に埋もれたものを丹念に拾い上げて新しいものをつくっていく、その喜びのような感情をモチベーションにしながら書いて居られたのではないかという共感を感じました。ただ一方で、もし先に読んでいたら影響を受けてしまって、『猫間川をさがせ』をよう形にしなかったかもしれない、ともおもいました。知らぬとことが、時に力にもなります。
鴎外は収集した武鑑からの情報だけでなく、墓碑などを求めて大正期の東京を歩き、縁の人を訪ねて歩いており、恐らくは現在残されている肖像画や写真に近い年齢であろう森林太郎の姿が読んでいるさなかにたびたび目に浮かびました。訪ねて来られたひとたちとしては、森林太郎と聞いてああ、あの……となったのか、興味があるところではあります。
森鴎外には『山椒大夫』や『高瀬舟』、『護持院ヶ原の敵討』といった所謂「歴史小説」の名作があります。私が幼年期から読んでいたのはどちらかというとこれらの作品でした。確かにこれらの作品はストーリーだてがしっかりしていて、子供にも大人にもその物語が読んだまま伝わる作品になっているとおもいます。
小学生や中学生だった頃の私には『渋江抽斎』に始まる歴史物というか史伝は退屈だったはずで、概略だけを文学史のなかに読んでそのままにしておき、四十路に及んで読み始めたというのは鴎外翁の執り成しだったのかもしれないと後生の勝手ながらおもいます。
青空文庫の短所
豊平文庫の見た目や操作性の良さは先にも触れました。
読んでる途中の操作ですが、ページの下の隅をタップすることで一瞬で改ページする仕様は私は豊平文庫で初めて見ました。一般的にブックリーダーでは実際にページをめくるような改ページのビューを見かけますが、私はこの方が好みです。ストレスが無い。
ページの真ん中、多分少し上が良いのかな(下の画像のガイドが表示されていない辺りですね)……シングルタップするとガイドメニューが出ます。
同じ場所をダブルタップすると別のガイドメニューが出ます。本のリストに戻りたい時は「本を選ぶ・設定」を。背景色・字詰めは私は触らないでいます。ページ指定も偶に使う程度。「読書タイマー」は使っていないですが時間を決めて読書する場合には良いでしょうね。
漱石、鴎外、芥川龍之介が読める時点でもうこれでいいじゃないかと思ったものでしたが、青空文庫ならではの制限もあります。外字が注釈表示になってしまうことです。
上記ページなどはその例です。『渋江抽斎』に続いて読んでいる『伊沢蘭軒』では、度々引用される蘭軒の『葌斎詩集』(かんさいししゅう)の「葌」が外字であり、都度注釈表記となってしまい、読んでいてその都度読んでいる流れが切れてしまうのを感じています。これは決して小さくない制限だとおもっています。もちろん、青空文庫の意義を否定するものではなく、青空文庫と有価な品としてある書籍のそれぞれの意義を指し示す、ひとつのポイントだろうとおもっています。
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