『憂鬱な e-book の夜明け(仮) ~アトムとビットのメディア考現学~』 夜鷹 ( kindle for iPhone Ver.3.5 )

2013年1月14日月曜日

 再帰的、というのとは違うのかもしれませんが e-book についての考察を取り上げます。

取り上げるのですが、むしろ特に前半の著者の回想にしばしば登場する Macintosh の方にしきりに興味や自分の回想が沸きました。著者が回想の中で勤務されていた制作会社で DTP のために Macintosh を導入されたのが 1990 年ごろのようにおもえます。私が大阪市立大学法学部に在籍し、ご指導頂いた田島裕教授の研究室で Macintosh を見たのが 1989 年でした。英米の判例や論文を読まれ、また書かれることが多かった田島先生は「英文はこれが入力し易いんだよ」とにこやかに仰った事が鮮やかに思い出されます。家にワードプロセッサ専用機はあってもパーソナルコンピュータなどありはしなかったあの頃、コンパクトに田島先生のデスクに収まった Mac はとても知的な装置に思えたものでした。

 今、これを書いている端末は DELL の Windows XP PC ですが、その横には iPhone4 が置いてあります。ヘビーユーザーとは到底言えないにせよ、Apple に影響を受けて使っている人間に私も該当するのに違いないことを改めて思い返します。


憂鬱にどう向き合うのか


 それはさておき、何が「憂鬱」なのか。

 後半特に論じられているのは、何よりもまずコンテンツが無料化の方向に進むこと。作家としての憂鬱であり、出版業に携わるひととしての憂鬱でしょう。音楽の状況とよく似ていることも各所で論じられてきています。

 もうひとつ私が読み取ったのは、日本独自の出版業界の商習慣が e-book にもついて回ろうとすることへの憂鬱です。これは読者としての憂鬱ということになりますでしょうか。出版や印刷に携わっているひとの多くはいまと同様の商売をいかに存続されることに気を取られてしまっているのかもしれないと思っていて、その動きが変に行政だと補助金だのといったものに絡んでおかしなことにならねば良いが。

 私なども e-book においてかなり片隅の方に居るという自覚があって読者に近い感覚なもので、後者について主に憂慮しています。でも、e-book が齎す新しい世界を求めていった結果、到来したのは自分の作品がなんの報酬も産まない世界かもしれない。それは自分に対してもつきつけねばならないとおもうのです。そのうえで、作品を購入ではなく作品や作家への敬意を示すようなお金の使い方をつくって行きたいと感じます。

 そんなことを考えて e-book が生み出す未来を思っているひとは、大多数ではないにせよおられるだろうと思っていて、楽観ではないにせよ良いように考えたいと私も思います。こんな考えは理想主義に過ぎるでしょうか。

 私も高邁な理想には寧ろ警戒感を抱くようなところはあります。「こっちの方が面白そうだ」と多くのひとに思ってもらって、それでいて言い出しっぺもサービスを提供する方も享受する方も満足を覚えるような持って行き方というのを本の分野でもやれたらいいな、というぐらいの加減の方が具合がいいんじゃないか。


おまけとしての Kindle への不満


 ところで、kindle for iPhone に若干の不満があります。 Kindle Fire や Paperwhite はどうなのでしょう。

 ひとつは、栞がうまく機能しないように見えること。途中まで読んだのを栞を設定しないで終わらすと再度開いた時にだいぶ前のページに戻っていてもどかしい思いをすることがよくあります。栞で呼び出す場合も、一番最近設定したページに飛べないという経験もしました。

 あとはフォントやレイアウトについて。

例えば上記の例だと7行目と8行目の間が妙に空いているのが分かります。他でも指摘されているのを見たことがありますが、日本語縦書きについてはフォントの考え方に何か不十分な点があるのではないかとおもいます。あと、これは文字コードの問題なのかもしれませんが、言い換えの際に使用する「──」が右に寄っている。これは私もよく使う表現なので気になります。フォントひとつとっても重要な要素なので、今後美しいフォントが Kindle for iPhone に適用されることになったら、そのフォントを作成したひと達や適用に携わったひとは称賛されてほしいとおもいますし、それを望みます。