水谷修さんが 2013 年 1 月 14 日付けで書かれたブログの文章を読みました。
大阪市立桜宮高校のバスケットボール部で指導教師による体罰が原因で生徒が自殺したことに対する、水谷さんとしての答えなのだろうと思いました。報道記者から水谷さんはコメントを求められるでしょうし、テレビ番組に出演された際に「これは体罰ではなく虐待だ」という的確な指摘をされたという話しも直接ではないながら聞きました。
読みながら、本筋ではないながら水谷先生が「私は夜の世界の人間だ」という表現を繰り返し使われることに気が付き、それが意味するところを自分が理解できないことにも気が付きました。そうだ、テレビなどで紹介されるのを見せて頂いたことはあるけれど、水谷さんの著作をきちんと読んだことは無かった。
こういう場合、本屋に立ち寄る時間や本棚の空きを気にせずにすぐ本を手に取れるというのは e-book という形態の利点のひとつであろうとは思います。で、実際にすぐ手に取れたのか。
私は出先で iPhone4 でブログを読んだあと、そのまま iPhone で水谷さんの著作が e-book で読めるかどうかを検索しました。帰宅するまでに確認できたのは紀伊国屋BokWeb のリーダーアプリケーションである Kinoppy のみでした。
帰宅後改めて PC のウェブで調べ直した結果、紀伊国屋Bookweb と BookLive! でそれぞれ小学館から出ている水谷さんの著作が3冊購入できることは確認しました。BookLive! でなく紀伊国屋で購入した理由は前述の通り「iPhone で購入可能なことが帰宅するまでに確認できた」からです。PC から購入し iPhone の Kinoppy に同期して読み始めました。だったら BookLive! でも良いのではないか……言われればその通りなのですが、使い勝手が良い方を選びたくなるのがユーザーとしは自然ではないでしょうか。
読んでいるうちに自分自身のことについて思い返してしまう自分に気が付きました。
大学で教員資格取得のガイダンスを聴き終わった時に(自分には教師は絶対無理だから保険のように教員免許を取るなんてことはやめよう)と思い、実際にそうしたこと。
既に故人である私の母親は教員免許を持っており教育実習までやったが私と同様にだったのかどうか(私には無理)と思ったらしく教師にはならず結婚して主婦になってしまい、その結果私が生まれたと聞いたこと。親子揃って、どうも教師には向いていなかったらしいようです。
こんなことをふつふつと思い出すのは水谷さんが子供達に全力で向き合っており、プロフェッショナルとしての教師の姿とはこういうものだろうが、とても自分には出来そうにないという慨嘆から来るのだろうとおもいます。せめて自分の子どもに対しては全力で向い合ってやりたいと思いますが、よその子供に対してもできるかと問いかけると無理なように思えてしまうのです。それとも私の人生のどこかできっかけがあれば、教師というような仕事に立ち向かいう自分があり得たのだろうか……
一方で水谷さんは自分の生い立ちや過ち、救えなかった子供のことも書かれています。それもまた読むものを内省へと誘うのではないでしょうか。
しかし、文庫版のあとがきで水谷さんは自分が関わることができない死後に『夜回り先生』シリーズの本を残したくないという思いがあり、一度は絶版にしたことを書かれています。結局は文庫版として刊行を継続することにされて私も思い立ってすぐに読むことを得たわけですが、本来子供達に届くようにと書かれた本が、それ以外の私のような読者に届いてしまうことをどのように思われるだろうかと少し、気になりました。
作家が人生を終えた時に作品としての e-book も消滅させる。そういうオプションも今後有り得るのかもしれません。水谷さんのように本が目的ではなく、手段であるような場合です。ただ、私としては作品を介して直接会っていない者同士が交流し得るなら、遺してよいのではないかと考えています。
大阪市立桜宮高校のバスケットボール部で指導教師による体罰が原因で生徒が自殺したことに対する、水谷さんとしての答えなのだろうと思いました。報道記者から水谷さんはコメントを求められるでしょうし、テレビ番組に出演された際に「これは体罰ではなく虐待だ」という的確な指摘をされたという話しも直接ではないながら聞きました。
読みながら、本筋ではないながら水谷先生が「私は夜の世界の人間だ」という表現を繰り返し使われることに気が付き、それが意味するところを自分が理解できないことにも気が付きました。そうだ、テレビなどで紹介されるのを見せて頂いたことはあるけれど、水谷さんの著作をきちんと読んだことは無かった。
こういう場合、本屋に立ち寄る時間や本棚の空きを気にせずにすぐ本を手に取れるというのは e-book という形態の利点のひとつであろうとは思います。で、実際にすぐ手に取れたのか。
私は出先で iPhone4 でブログを読んだあと、そのまま iPhone で水谷さんの著作が e-book で読めるかどうかを検索しました。帰宅するまでに確認できたのは紀伊国屋BokWeb のリーダーアプリケーションである Kinoppy のみでした。
帰宅後改めて PC のウェブで調べ直した結果、紀伊国屋Bookweb と BookLive! でそれぞれ小学館から出ている水谷さんの著作が3冊購入できることは確認しました。BookLive! でなく紀伊国屋で購入した理由は前述の通り「iPhone で購入可能なことが帰宅するまでに確認できた」からです。PC から購入し iPhone の Kinoppy に同期して読み始めました。だったら BookLive! でも良いのではないか……言われればその通りなのですが、使い勝手が良い方を選びたくなるのがユーザーとしは自然ではないでしょうか。
内省を促す文章
読んでいるうちに自分自身のことについて思い返してしまう自分に気が付きました。
大学で教員資格取得のガイダンスを聴き終わった時に(自分には教師は絶対無理だから保険のように教員免許を取るなんてことはやめよう)と思い、実際にそうしたこと。
既に故人である私の母親は教員免許を持っており教育実習までやったが私と同様にだったのかどうか(私には無理)と思ったらしく教師にはならず結婚して主婦になってしまい、その結果私が生まれたと聞いたこと。親子揃って、どうも教師には向いていなかったらしいようです。
こんなことをふつふつと思い出すのは水谷さんが子供達に全力で向き合っており、プロフェッショナルとしての教師の姿とはこういうものだろうが、とても自分には出来そうにないという慨嘆から来るのだろうとおもいます。せめて自分の子どもに対しては全力で向い合ってやりたいと思いますが、よその子供に対してもできるかと問いかけると無理なように思えてしまうのです。それとも私の人生のどこかできっかけがあれば、教師というような仕事に立ち向かいう自分があり得たのだろうか……
一方で水谷さんは自分の生い立ちや過ち、救えなかった子供のことも書かれています。それもまた読むものを内省へと誘うのではないでしょうか。
しかし、文庫版のあとがきで水谷さんは自分が関わることができない死後に『夜回り先生』シリーズの本を残したくないという思いがあり、一度は絶版にしたことを書かれています。結局は文庫版として刊行を継続することにされて私も思い立ってすぐに読むことを得たわけですが、本来子供達に届くようにと書かれた本が、それ以外の私のような読者に届いてしまうことをどのように思われるだろうかと少し、気になりました。
作家が人生を終えた時に作品としての e-book も消滅させる。そういうオプションも今後有り得るのかもしれません。水谷さんのように本が目的ではなく、手段であるような場合です。ただ、私としては作品を介して直接会っていない者同士が交流し得るなら、遺してよいのではないかと考えています。
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