SS合評という虎の穴に誘っていただいたのは今年のとある花見の場でした。自己出版ができるようになってきたけれども、内輪でなぁなぁでやるんじゃなくってガチンコで論評し合おうぜ、という会……ということで良いでしょうか。
2015年7月22日に第一回を開催、しかも合評の現場を Youtube で中継しました。筆者は堂々の評価最下位。最下位よりも画面に映っちゃってるよ……という方が恥ずかしかった気がしますがそれはさておき。
合評への参加者に高橋文樹さんがおられます。小説家として Wikipedia に記載のある唯一の参加者です。「文芸畑では、つまらんやつの方が例外であり、政治家や軍人では、つまらなくない方が例外」という『胡堂百話』における野村胡堂さんの言説に影響されて私は(小説家という職業の方はきっと話しが面白いんだろう)と思い込んでいるのですが高橋さんの話しはその思い込みに違わずいちいち面白い。その高橋さんが合評中に何度か自著『方舟謝肉祭』の宣伝を差し挟んでこられるものでついついその場で Amazon で ebook を購入してしまったものです。
高橋さんはオンライン文芸誌「破滅派」の管理者でもありますが「破滅派」は作品を ebook に書き出す機能を提供しており、その機能を使って Amazon Kindle Direct Publishing (KDP) から発売した1冊目が『方舟謝肉祭』であり差し挟んでくるのも当然のことではありました。とはいえうまい具合に話題に出されてきていました。他の参加者に ebook の値付けについて「高いよ」と野次られると即「原稿用紙2円で計算したらこうなった」と即時返してくる辺りもいい感じです。
第二回のSS合評に向けて論評を書くのが優先なはずながら『方舟謝肉祭』も読んでこれを書いています。前半辺りでは長州弁特有の語尾「のんた」が現れる稀有な小説、ぐらいに思って読んでいたのですがだんだんと(これは厄介なものを読んでしまった……)と感じ出すに至りました。そういえば高橋さん、「誰に対して書いている作品か」みたいな議論になっている時にもこの作品の話しをされたんでした。
メタフィクション、というと「小説について書かれた小説」ということになります。『方舟謝肉祭』でも小説を書いている小説家による一人称の記述と、彼が書くところの小説作品が交互に現れます。そして「これは血のことに関する小説だ」という、作中で繰り返し述べられるテーマ。これはあくまでも創作なのか、それとも多少なりとも現実が含まれているのか。合評中「日本の文学は私小説が主流となってきた」という指摘も高橋さんが振ったんでした。
読後の私に芥川龍之介の『藪の中』を想起させた、後半に挿入される小説『謝肉祭』はそれなりに「キツい」表現を含んでいますがそれはまぁ、作品によってはあることです。ただそのような描写を含む作品を、北杜夫の『楡家の人びと』のような自分の一族にモデルを求めたかに思える小説として書かれているわけです。どこまでが本当なんだろう……という、要らぬことを読者としては考えてしまいます。「そう思わせておいて全部創作だよ」とひっくり返されてしまうのかもしれませんが、読者としてはそこに疲労感を感じました。
といって作品が詰まらないということは意味しません。特に私のように好きな小説に偏りがあり、どっちかというとノンフィクションや随筆の方に行ってしまうという人間にとっては私小説的なパートから小説に、また私小説的な手紙文にと切り替わることで新鮮に読んでいくことが出来ました。会話文体の部分は高橋さんが喋っているのを聞いているようで、私としては面白くないわけがないのです。
そして私小説的なパートがざっくばらんに、自由に書かれていることが小説内小説部分の小説然たる輪郭を際立たせます。どれくらいざっくばらんかというとアスタリスクを使うたびに「おまえの大好きなケツの穴(*)」と書かれたりとかサブタイトルにマギー司郎さんの名前が使われるとかいろいろあり(ここまでフランクに書いていいんだろうか)と若干不安に思ったりするのですがこれもきっと計算のうちなんだろうな。
方舟謝肉祭: 海洋伝奇メタフィクション (破滅派)
2015年7月22日に第一回を開催、しかも合評の現場を Youtube で中継しました。筆者は堂々の評価最下位。最下位よりも画面に映っちゃってるよ……という方が恥ずかしかった気がしますがそれはさておき。
合評への参加者に高橋文樹さんがおられます。小説家として Wikipedia に記載のある唯一の参加者です。「文芸畑では、つまらんやつの方が例外であり、政治家や軍人では、つまらなくない方が例外」という『胡堂百話』における野村胡堂さんの言説に影響されて私は(小説家という職業の方はきっと話しが面白いんだろう)と思い込んでいるのですが高橋さんの話しはその思い込みに違わずいちいち面白い。その高橋さんが合評中に何度か自著『方舟謝肉祭』の宣伝を差し挟んでこられるものでついついその場で Amazon で ebook を購入してしまったものです。
高橋さんはオンライン文芸誌「破滅派」の管理者でもありますが「破滅派」は作品を ebook に書き出す機能を提供しており、その機能を使って Amazon Kindle Direct Publishing (KDP) から発売した1冊目が『方舟謝肉祭』であり差し挟んでくるのも当然のことではありました。とはいえうまい具合に話題に出されてきていました。他の参加者に ebook の値付けについて「高いよ」と野次られると即「原稿用紙2円で計算したらこうなった」と即時返してくる辺りもいい感じです。
第二回のSS合評に向けて論評を書くのが優先なはずながら『方舟謝肉祭』も読んでこれを書いています。前半辺りでは長州弁特有の語尾「のんた」が現れる稀有な小説、ぐらいに思って読んでいたのですがだんだんと(これは厄介なものを読んでしまった……)と感じ出すに至りました。そういえば高橋さん、「誰に対して書いている作品か」みたいな議論になっている時にもこの作品の話しをされたんでした。
メタフィクション、というと「小説について書かれた小説」ということになります。『方舟謝肉祭』でも小説を書いている小説家による一人称の記述と、彼が書くところの小説作品が交互に現れます。そして「これは血のことに関する小説だ」という、作中で繰り返し述べられるテーマ。これはあくまでも創作なのか、それとも多少なりとも現実が含まれているのか。合評中「日本の文学は私小説が主流となってきた」という指摘も高橋さんが振ったんでした。
読後の私に芥川龍之介の『藪の中』を想起させた、後半に挿入される小説『謝肉祭』はそれなりに「キツい」表現を含んでいますがそれはまぁ、作品によってはあることです。ただそのような描写を含む作品を、北杜夫の『楡家の人びと』のような自分の一族にモデルを求めたかに思える小説として書かれているわけです。どこまでが本当なんだろう……という、要らぬことを読者としては考えてしまいます。「そう思わせておいて全部創作だよ」とひっくり返されてしまうのかもしれませんが、読者としてはそこに疲労感を感じました。
といって作品が詰まらないということは意味しません。特に私のように好きな小説に偏りがあり、どっちかというとノンフィクションや随筆の方に行ってしまうという人間にとっては私小説的なパートから小説に、また私小説的な手紙文にと切り替わることで新鮮に読んでいくことが出来ました。会話文体の部分は高橋さんが喋っているのを聞いているようで、私としては面白くないわけがないのです。
そして私小説的なパートがざっくばらんに、自由に書かれていることが小説内小説部分の小説然たる輪郭を際立たせます。どれくらいざっくばらんかというとアスタリスクを使うたびに「おまえの大好きなケツの穴(*)」と書かれたりとかサブタイトルにマギー司郎さんの名前が使われるとかいろいろあり(ここまでフランクに書いていいんだろうか)と若干不安に思ったりするのですがこれもきっと計算のうちなんだろうな。
方舟謝肉祭: 海洋伝奇メタフィクション (破滅派)
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