日本独立作家同盟が主催しているセミナーで、2016年1月30日に渋谷で開催された「變電社の試み〜『デジタルアーカイブ』『パブリックドメイン』がもたらす自己出版の可能性を探る」という講演は画期的な内容でした。
第二部のパネル・ディスカッションにおいて司会の仲俣暁生さんがおっしゃったことが印象に残っています。「パプリック・ドメインというとまず青空文庫を思い出すが、なんでもかんでも青空文庫に任せて良いわけではない」というようなことを仰ったと記憶しています。
確かに青空文庫がこれまで果たしてきた役割の大きさは疑いようもなく、これからもパブリック・ドメインとなっている作品の共有について基礎の重要な部分を担い続けるでしょう。
「青空文庫ではできないこと」の実例についてだいぶ以前にここでも書いたことがありました。その時にはいわゆる外字をそのまま使うことをみとめていないことについて書きました。例えば「梆」という字を使う場面で「#「木+邦」、U+6686、87ー8」という、直接表記できない文字の説明と Unicode の文字コード説明を記載するような表現になります。これにより正確に内容を共有できるわけですが、当然読みやすくはありません。私がこの時読んでいたのは森鴎外の『渋江抽斎』でしたが鴎外の作品で外字が結構入るわけですからそれ以前の文章においては普通にそういった文字が使われています。
それだけではなく挿絵や写真と不可分な作品もあります。テキストであってもフォントが重要な意味を締める作品もあるでしょう。更にはカリグラムのような文字でもって視覚的に表現する手法すらあるのです。そういった作品でパブリック・ドメインにあるものを改めて共有するためにまた別の手法を考える時期が来た、単純に画像で共有ではなく ebook として実現できるだけの技術が普通に使えるようになってきました。以前取り上げた『エロエロ草紙』の再刊はその先駆けであったと言えるでしょう。そして冒頭で紹介した「變電社の試み」のセミナーは ebook での作家の再発見の可能性について実例でもって世に問うた場でした。變電社はこのセミナーに先立って『野川隆著作集Ⅰ』を Kindle Store で刊行していて、その実例をもっての講演であったからです。その意味で画期的であった訳です。
野川隆、1901年千葉出身の詩人、編集者。23歳で雑誌『ゲエ・ギムギガム・ブルルル・ギムゲム』を創刊するが、同じくこの雑誌に関わった北園克衛と比べるとほとんど知られていません。しかしこの著作集で特に彼の詩作品に触れると(こんな才能が埋もれていたのか)ということに感嘆します。野川隆はのちにプロレタリア文学運動に身を投じ満州で農民の活動支援をしている時に治安維持法違反の容疑で投獄され、そのことがもとで43歳の若さで没します。
彼が物理や化学の用語を付け焼刃ではなく知識の裏付けをもったうえで詩に使っているのを読むと宮澤賢治が自らの鉱物学や天文学についての知識を詩や童話作品に発露したのを想起します。野川隆がこの著作集に再録されている詩や戯曲を書いていた1922年(大正11)から1927年(昭和2)というと丁度宮澤賢治が創作をしていた時期と重なります(『春と修羅』『注文の多い料理店』の出版が1924年)。同じ時期に、おそらくお互いを知らないままに二人の詩人が自然化学などの言葉を散りばめた詩を生みだしつつあったことは興味深い。野川隆も宮澤賢治も生前に受けていた評価は大差なかったはずですがご存知の通り宮澤賢治は草野心平などの評価でもって知られるようになり今は知らぬ人とてない童話作家、詩人です。
であるならば野川隆は今持田泰(變電社社主)によって知られるようになる、その端緒を逝去後七十年にして得たということになります。このことをおもうと ebook が担うことができる役割の広さを再認識します。
野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27 (變電叢書)
第二部のパネル・ディスカッションにおいて司会の仲俣暁生さんがおっしゃったことが印象に残っています。「パプリック・ドメインというとまず青空文庫を思い出すが、なんでもかんでも青空文庫に任せて良いわけではない」というようなことを仰ったと記憶しています。
確かに青空文庫がこれまで果たしてきた役割の大きさは疑いようもなく、これからもパブリック・ドメインとなっている作品の共有について基礎の重要な部分を担い続けるでしょう。
「青空文庫ではできないこと」の実例についてだいぶ以前にここでも書いたことがありました。その時にはいわゆる外字をそのまま使うことをみとめていないことについて書きました。例えば「梆」という字を使う場面で「#「木+邦」、U+6686、87ー8」という、直接表記できない文字の説明と Unicode の文字コード説明を記載するような表現になります。これにより正確に内容を共有できるわけですが、当然読みやすくはありません。私がこの時読んでいたのは森鴎外の『渋江抽斎』でしたが鴎外の作品で外字が結構入るわけですからそれ以前の文章においては普通にそういった文字が使われています。
それだけではなく挿絵や写真と不可分な作品もあります。テキストであってもフォントが重要な意味を締める作品もあるでしょう。更にはカリグラムのような文字でもって視覚的に表現する手法すらあるのです。そういった作品でパブリック・ドメインにあるものを改めて共有するためにまた別の手法を考える時期が来た、単純に画像で共有ではなく ebook として実現できるだけの技術が普通に使えるようになってきました。以前取り上げた『エロエロ草紙』の再刊はその先駆けであったと言えるでしょう。そして冒頭で紹介した「變電社の試み」のセミナーは ebook での作家の再発見の可能性について実例でもって世に問うた場でした。變電社はこのセミナーに先立って『野川隆著作集Ⅰ』を Kindle Store で刊行していて、その実例をもっての講演であったからです。その意味で画期的であった訳です。
野川隆、1901年千葉出身の詩人、編集者。23歳で雑誌『ゲエ・ギムギガム・ブルルル・ギムゲム』を創刊するが、同じくこの雑誌に関わった北園克衛と比べるとほとんど知られていません。しかしこの著作集で特に彼の詩作品に触れると(こんな才能が埋もれていたのか)ということに感嘆します。野川隆はのちにプロレタリア文学運動に身を投じ満州で農民の活動支援をしている時に治安維持法違反の容疑で投獄され、そのことがもとで43歳の若さで没します。
彼が物理や化学の用語を付け焼刃ではなく知識の裏付けをもったうえで詩に使っているのを読むと宮澤賢治が自らの鉱物学や天文学についての知識を詩や童話作品に発露したのを想起します。野川隆がこの著作集に再録されている詩や戯曲を書いていた1922年(大正11)から1927年(昭和2)というと丁度宮澤賢治が創作をしていた時期と重なります(『春と修羅』『注文の多い料理店』の出版が1924年)。同じ時期に、おそらくお互いを知らないままに二人の詩人が自然化学などの言葉を散りばめた詩を生みだしつつあったことは興味深い。野川隆も宮澤賢治も生前に受けていた評価は大差なかったはずですがご存知の通り宮澤賢治は草野心平などの評価でもって知られるようになり今は知らぬ人とてない童話作家、詩人です。
であるならば野川隆は今持田泰(變電社社主)によって知られるようになる、その端緒を逝去後七十年にして得たということになります。このことをおもうと ebook が担うことができる役割の広さを再認識します。
野川隆著作集1: 前期詩篇・評論・エッセイ 1922 ー 27 (變電叢書)
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